東京大学 エピゲノム&シグナリング クラスターのミッション

 人間のような多細胞生物では、細胞が分化するたびにゲノムが修飾され、それが複製されて記憶されていく。このような細胞分裂の時に複製されるゲノム変化をエピゲノムという。  外部の環境変化を感知した細胞のシグナリングによりエピゲノムが変化し、一つの受精卵から200種類の細胞が作られ、これらの相互作用で60兆個の細胞からなる人体が作られるメカニズムを解き明かすことが求められている。  皮膚の細胞が万能細胞に変わるのはエピゲノムの変化ゆえであり、がんや老化のメカニズム解明もシグナリングとエピゲノムの系統的な解析が必須である。この研究には下記の3つの超えるべき壁があり、本拠点はそれを超えるための新たな研究拠点である。

第一の課題: 世界的なタンパク質と核酸の解析能力

 30億塩基対のゲノムのダイナミックな修飾、変化を観測するには、超高速のシークエンス決定能力が必要である。シグナリングにかかわるタンパク質の観測 には高感度な質量分析能力が必要である。タンパク質とゲノムの相互作用観測には、ネイティブなタンパク質を検出するための抗体またはそれに代わるプローブ が必要である。こうした世界的な解析機器を集中し、世界トップレベルのモノクロナル抗体産生能力を駆使してエピゲノミクス解析技術を生み出す。

第二の課題: 膨大情報の処理の壁

 膨大な上にダイナミックに変化するエピゲノムの情報をどう研究者が解析するかは新たな課題である。我々は、昨年度サイエンス誌の Breakthrough of the yearに選ばれたゲノム個人差の解析と可視化で示された高いパフォーマンスの生命情報処理能力を開発し、それを視覚的に理解しやすくする可視化技術を開 発している。エピゲノミクスの情報の取扱い手法を確立する。

第三の課題: エピゲノムに基づく新たなセントラルドグマ

 従来の分子生物学のセントラルドグマはDNA makes RNA makes Proteinであったが、シグナリングにより書き換えながら保存されていくというエピゲノムという概念は新たなセントラルドグマを必要とする。生物学の データとダイナミズムの数理科学の統合からの新たな理論化が求められる。

 東京大学エピゲノム・シグナリングクラスターはこうした3つの壁の挑戦する新たな拠点形成を目指す科学者の集団である。


"エピゲノム&シグナリング"とは?

エピゲノム&シグナリングとはなんでしょうか?

エピゲノム&シグナリングという名前には馴染みのない方も多いと思われます。なぜ脳の形成や、老化、がん化においてエピゲノムを変えるシグナルの解明が必須かをご説明したいと思います。

(1)一つのゲノムでなぜ200種類の細胞がうまれるか?

 我々、人間の体は約60兆個の細胞からなりたっています。細胞は同じではなく白血球、神経や肝臓の細胞など200種類の細胞から成り立っています。これ らの細胞は、人間の体から取り出して培養すると分裂して1個の細胞が2個になっても、白血球は白血球であり、肝臓の細胞は肝臓の細胞という性質を保ってい ます。  我々、人間の細胞は同じゲノムと呼ばれる30億塩基の配列をもつDNAをもっています。このゲノムに細胞の基本的な情報が書かれているのですが、なぜ 200種もの異なった形と機能を示す細胞が生まれるのでしょうか。この問いに答えを与えるのがエピゲノムとそれを制御する細胞シグナリングです。

(2)ゲノムはシグナリングにより修飾され、エピゲノムが変わる。

 21世紀にはいりヒトゲノムが解読されるとともに、生まれた後、ゲノムは修飾されていくことがわかりました。ゲノムの4つの塩基の一つであるシトシンは メチル化されます。シトシンが一度メチル化されると、細胞が分裂するときにも複製され、いわば細胞に記録されます。細胞の外の環境変化は細胞内シグナリン グという情報伝達系により、ゲノムに伝えられ、ゲノムが修飾されエピゲノムが変化していきます。  エピゲノムの変化にはDNAのメチル化に加えて、DNAをまきつけているヒストンのメチル化やアセチル化も大事です。面白いことに、細胞が分裂するとき にヒストンの修飾も複製されます。  エピゲノムの変化は遺伝子の発現、RNAの合成を制御しており、これにより細胞の機能と形がかわるのです。

(3)受精卵においてエピゲノムはリセットされ、個体の発生がエピゲノムに記録されていく

 精子と卵子から受精卵が作られる過程でエピゲノムは一度リセットされ、DNAのメチル化も一度きれいにされます。そこから細胞が分化する度に、エピゲノ ムが変化して細胞に記憶されていきます。1個の受精卵から60兆個の細胞が作られ人体を制御していくのはとてつもなく複雑な現象と考えられますが、それは エピゲノムの変化でしっかり記録されているのです。

(4)老化を支配するエピゲノム

 人体内から細胞を取り出して、培養していると数回から数十回分裂すると形が変わって増殖しなくなり、死滅してしまいます。これをヘイフリックの限界とい い細胞の老化と死のモデルと考えられています。エピゲノムに蓄積する変化が、細胞の老化を支配することが示唆されています。従来から知られるテロメアの変 化、配列の変異とあわせてエピゲノム変化が老化にどう関与するかに関心が集まっています。さらに細胞の老化と個体の老化の関係はどのようなものか、謎はつ きません。

(5)エピゲノム変異のがん化を標的とした新たな治療法

 最近、腸管のがん化がIGF2とH19領域のメチル化変異で進み治療の標的となることが動物実験で示されました(金田准教授, 参考文献)。細胞の記憶であるエピゲノムの変異ががん化の原因を担うとすれば、全く新しい治療法を開発できる可能性もあります。

(6)神経系とエピゲノム

 脳のシステムは基本的には層状に配列された細胞種の連結により構築されています。例えば網膜では、視細胞(錐体、杆体)、双極細胞、水平細胞、アマクリ ン細胞、神経節細胞の5つの神経細胞が存在します。これらが、発生途上でどのようにエピゲノムを変化させうまれてくるか、その生成と相互作用をといていく ことは大きな課題となります。神経の理解は単なるネットワークの配線図理解では不可能であり、エピゲノムとそれを制御するシグナリングの理解から「記憶」 にかかわる新たな概念が生まれることが期待されています。

(7)生物の記憶のシステムの新しい理論:エピゲノムを制御するシグナリングの理論

 生物は記憶をもったシステムであることを特徴とします。生物の種としての記憶はこれまでゲノムになると考えられ、大腸菌などの解析から進化の原動力は、 タンパク質をコードした配列の変化と考えられてきました。しかし、多細胞生物では、タンパク質をコードする配列はむしろ保存され(木村の進化中立説)それ 以外のゲノム配列が進化の中心と考えられてきました。その中でエピゲノム制御にかかわる配列の問題が理論課題の中心であり、それを制御するシグナリングの 理解が必須と思われます。